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守るべきもの

雨の夜①

庭先のライラック

ほのかに甘い香りを放つ

リラ冷えの5月。

 

今夜は

息苦しい程

激しい雨が降っている。

 

この4日

立て続けに

夫の帰宅は午前様だった。

 

今夜もまた

時計の針は12時をまわった。

 

いつだったか

連日帰りが遅いことを夫は

社長会の付き合いだから

しょうがない」

 

と吐き捨てるように言った。

 

地元の小さな社長会

60過ぎの年配の人が多い。

 

3日も4日も連続で

夜遊びなど出来るわけがない。

 

どう考えても

無理があるその言い訳に

私の不安は消えるどころか

ますます膨れ上がった。

 

 

 

私には一つ

気になることがある。

 

この半年

夫が接待交際費として

設計事務所に上げる

領収書の半分以上に

同じ店の名前が書いてあるのだ。

 

その名は「ドルチェ」

 

私も名前だけは聞いたことがある。

高級クラブだと聞いていた。

 

 

「このお店、行くの多いね」と私。

 

「ああ、そこは社長仲間の

溜まり場だから」と夫。

 

以前

夫から領収書の束を

受け取った私が

何気なく言った言葉に夫は

そう言い訳をした。

 

「へえ、すごいな。

社長さん達って

やっぱりお金持ちなんだね」

 

素直な私の感想。

 

毎回

領収書に書かれた金額が

私が知るチェーン店の居酒屋とは

桁が一つ違っていたからだ。

 

 

 

今夜も夫はそこだろうか。

 

どうしていつもそこなのだろう。

 

その店でいつもだれかと

会っているのではないだろうか。

 

それってもしかして女?

 

まさかね。

 

まさかうちの夫に限って

そんなことあるはずがない。

 

月並みな台詞で

もう一人の私がその推測に

激しく抵抗する。

 

顔無しで

テレビに映る犯罪者の妻が

インタビューで言う常套句。

 

そうとはわかっていても

その言葉をどうしても

言いたくなるのだ。

 

まさかうちの夫に限って

そんなことあるはずがない。

 

今まで他の女性に

心移りなどしたことが

ない夫だから。

 

今は

設計事務所の所長になったストレスを

夜遊びで発散しているだけ。

 

人間かかった分のストレスを

発散する場は必要だ。

 

きっとそうだ。

 

女性の存在を疑う私と

夫を信じたい私が

私の心の中で何度も何度も交差する。

 

「ねえ、あなたは毎晩

どこで誰となにをしているの?」

 

24年かけて

築いてきたものがなにもかも

この手の指を間から

零れ落ちてしまいそうで

怖くて言えない言葉。

 

夫の暴力が怖いのではない。

 

夫が更に

私から離れていってしまうことが

なによりも怖かった。

 

 

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心療内科④

子供達が

それぞれの部屋で

深い眠りについた頃

ようやく夫の車が

家のガレージに入る音がした。

 

「おかえりなさい……。

ご飯食べるでしょ?」

 

「……」

 

私の問いに無言のまま

夫はお風呂場に向かった。

 

夫は入浴をすますと

ビールを片手にソファに座り

録画していた番組を見ようと

テレビをつけた。

 

半年前までは

この時間だけが

唯一ほんのわずかな

夫婦二人だけの時間。

 

昔は

ビールを飲む夫の隣に座り

2人でいろんな話をした。

 

設計事務所のこと

子供達のこと

芸能ネタやご近所さんの話等。

 

友達のいない夫にとって

私が友達のような唯一の話し相手

なんだろうなと私は感じていた。

 

しかしそれは今となってはもう

遙か遠い昔の出来事のよう。

 

ビールを飲む夫が座るソファの横に立ち

私は口を開いた。


「今日ね

会社帰りに心療内科に行って来たの」


「……」


もちろんこんな話

聞きたい話ではないことは

私だってわかっている。

 

でももうどうしても

話さずにはいられなかった。

 

どうして?

どこか悪いのか?

病気じゃないよね?

 

そんな言葉どころか

なんの言葉一つ

夫の口からは出てこなかった。

 

「ねえ、聞いてる?

こんな話いやだろうけど

ちゃんと聞いてほしい……」

 

夫は私の言葉に

眉ひとつ動かさず

ただ一人テレビの画面を

見つめている。

 

「ねえ、健太郎さん……」

 

私の言葉が果たして

夫の耳に届いているのかさえ

もう定かではない。

 

どうしていいのか

分からなくなった私は

思わず床に座り込み

泣いた。

 

いったい私のなにが悪いのか

夫になにが起きたのか

とにかく夫と話がしたい。

 

元通りの夫婦に戻るために

子供達のしあわせを守るために。

 

私はとめどなく溢れ出る涙に

両の手で顔を覆った。

 

「ははははは」

 

その時

夫の笑い声がして私は顔を上げた。

 

夫はテレビの中の

お笑い芸人の会話に

笑ったのだ。

 

まるで目の前で泣く私など

そこには存在しないかのように。

 

もうダメだ。

このままでは私

ほんとにおかしくなってしまう。

 

真っ暗なキッチンに向かうと

私は初めてあの白い粒を

自らの口に入れうずくまる。

 

こんな姿を子供達に

見せるわけにはいかない。

 

どうか私を助けてと

私は心の中で何度も呟いた。

 

暫くして薬が効き始めると

驚くほどに心の中から

不安という感情だけが

フェイドアウトしていく。

 

その代わり今度は

薬を使ったことへの罪悪感が

次第に私の胸を一杯にした。

 

涙が頬をつたい落ちる。

 

さっきまでソファで笑っていた

子供達の顔が浮かんでは消える。

 

リビングからは

夫の笑い声だけが響いてくる。

 

 
 

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心療内科③

その夜

リビングでは

何も知らない三人の子供達が

いつものように食事を済ませ

寛いでいる。

 

「健斗はほんとゲーム下手だなぁ。

そこはそんなじゃダメなんだよ。

ちょっとお姉ちゃんに

貸してごらんよ」

 

長女の美織が

テレビゲームに夢中な健斗の

コントローラーを取り上げた。

 

「なんだよ、返せよ。

僕自分で出来るんだから。

お姉ちゃんより僕の方が

全然うまいんだから返せ。

お母さん!美織が

僕のコントローラー取ったぁ!」

 

「あ、そこ、そんなんじゃ駄目だよ。

美織ちょっとお兄ちゃんに貸しなよ。

いいからちょっと貸して。

あーほら失敗。

お兄ちゃんならクリア出来たのに

美織も健斗もまだまだ修行が足りん」

と悠真。

 

「お兄ちゃんが邪魔したからだよ。

じゃなきゃ私クリア出来てましたぁ。

ようしもう一回!」

と美織。

 

「お兄ちゃんもお姉ちゃんも

邪魔すんなぁ。

僕がやってたんだから返せ。

返せってばー!

お母さん、ねぇお母さーん

お兄ちゃんとお姉ちゃんに言ってよぉ」

と健斗。

 

 

 

昔と何も変わらない……。

 

我が家の夕食後のリビングは

いつものように賑やかだ。


なんだかんだ言っても

仲良しの三人兄弟。

 

三人の無邪気な笑顔

楽しげな声

私の大事なたからもの。

 

元々仕事の多忙を理由に

子供に対して淡泊な夫。

 

元々仕事とゴルフ以外

家庭や子供達に

ほとんど興味を示さない夫。

 

これをいうと皆に驚かれるが

3人も子供がいるのに

学校行事も参加したことがない。

 

そんな夫と

朝以外殆ど会う時間が無い子供達は

まだ夫の変化に

気付いていない。

 

 

「ほらほら

あなたたち宿題終わったの?

ゲームもいいけど

宿題早く終わらせて

順番にお風呂入ってよ。

もうこんな時間なんだから」

 

私は無理矢理口角を上げた。

 

子供達にとっては

いつも通りの夜。

 

 

 

そして

子供達が

それぞれの部屋で

深い眠りについた頃

ようやく夫の車が

家のガレージに入る音がした。

 

 

 

 

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心療内科②

私は一人きりで

この不安を抱えるのは

もう限界だった。

 

 

 

 

会社帰り

私は生れて初めて

街の小さな心療内科を受診した。

 

こんなにも

私の心を不安にさせる

夫の豹変。

 

あんなに穏やかだった夫は

もう私の前には存在しない。

 

どんどん変わっていく夫が

私は怖くてたまらないのだ。

 

 

 

診断は全般性不安障害

 

私は生れて初めて

精神安定剤というものを

この手にした。

 

私にとって未知のその白い粒。

 

一生使うことは無いだろうと

思っていた向精神薬

 

それを

手にしたことがなんだか怖くて

私は急いでもらった薬の袋を

バックの奥に押し込んだ。

 

 

 


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心療内科①

「……おはよう」

 

翌朝

ワイシャツを羽織り

二階から降りてきた夫に

そう声をかけた。

 

もちろん

夕べの壁の穴の出来事には

一切触れない。

 

触れられないと言ったほうが正しい。

 

おはようと

夫から

以前のような返事が返ってくれば

私たちはまだ大丈夫。

 

そんな私の小さなカケ。

 

しかし、返事は返って来ない。

 

健太郎さん

味噌汁食べるでしょ?」

 

「……いらない」

 

平静を装う私に

吐き捨てるように言うと

夫は洗面所へと向かった。

 

今の夫から感じるものは

私への得体の知れない

怒りと苛立ち。

 

会話をする度

今までとは違う

夫の冷たい言葉が

 

昔と変わらず

無防備なままの私の心に

容赦なく突き刺さる。

 

その度

私の心からは血が流れ

鋭い痛みに

私はその顔を歪めるのだ。

 

 いったいあなたに何があったの?

私がなにをしたの?

本当のことを言ってよ。

 

これ以上

傷つけられるのが怖くて

吐き出せずに飲み込む言葉。

 

大丈夫。

暫くすれば

きっと元の夫に戻るはず。

時間が解決してくれるはず。

 

しかし心の中のもう一人の私は

どうしてもそれで良しとはしない。

 

本当はなにか

隠し事があるんじゃないだろうか。

私には言えない何か。

 

大きな不安の渦の中に

私はどんどん

呑み込まれていった。

 

もうしばらく

夜もほとんど眠れていない。

 

食事もあまり摂れていない。

 

家事も仕事も

以前のようにはできなくなった。

 

私が私でなくなってしまいそうで怖い。

 

このままでは私

正気を失ってしまうのではないだろうか。

 

もしそんなことになったら

大事な三人の子供たちは

いったいどうなる。

 

家庭は?

 

設計事務所は?

 

きっとみんなめちゃくちゃになってしまう。

 

私しか出来ないこと

私がやるべきことが

家にも事務所にもたくさんあるのだ。

 

代ってくれる人なんていない。

いったいどうしたらいいのだろう。

 

でもこんなこと

相談できる人は誰一人いない。

 

私は一人きりで

この不安を抱えるのは

もう限界だった。

 

 

 

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香水⑥

午前二時を過ぎた頃だった。

ゴルフから夫が帰宅した。

 

着替えの入ったバックを抱えた夫が

入ってきたリビングに

今朝の香水の残り香が

微かに広がる。

 

匂いに敏感は私は

その匂いに今までとは違う夫の

不穏な変化を感じた。

 

「おかえりなさい……お疲れ様」

 

早朝から出かけるゴルフで

こんな夜中まで夫が帰ってこない

ことは今までにはない。

 

いつもは夕方には帰って来ていた。

 

夫はこんな時間まで

どこでなにをしていたのだろう。

 

二階で眠る三人の子供達に

話を聞かれる心配の無いこの時間は

話し合うには都合が良いのでは

ないだろうか。

 

お風呂を済ませ

パジャマに着替え

寝室に来た夫に声をかけた。

 

「疲れてるだろうけど

ちょっとだけいい?」

 

「……なんだよ」

 

夫はするりとベッドに潜り込み

私に背を向ける。

 

健太郎さん、なにかあったの?」

 

「……」

 

「所長になって大変なのはわかってる。

だけどずっと話もしてないし。

なにかあるのなら言ってほしいの」

 

そんな私の言葉にいきなり振り返ると

夫はみるみるその顔を赤くした。


「なんにもないよ!

お前には関係ないだろ!

いちいちうるさいな!」

 

「え?なに怒ってるの?

あなたが一人で

なにか悩んでるんじゃないかって

心配だから聞いただけだよ」

 

「うるさい!黙ってろ!

お前には関係ないんだよ!」

 

夫は起き上がりそう言うと

壁に拳を二度叩きつけた。

 

私は息を呑む。

 

私はこんな風に激高する夫を

今まで一度も見たことが無い。

 

夫は寝室を出て行った。

 

壁に記された怒りの痕跡と

怯える私を残して。

 

目の前で起きたことは何なのか。

 

私はあまりの驚きに

夫の後を追うことも出来ず

ベッドの上にへたり込む。

 

膝に置いた手が

ぶるぶると小刻みに震える。

 

きっと……

きっと夫はストレスで一時的に

おかしくなっているだけ。

 

すぐに元の夫に戻るはず。

 

穏やかで優しかった夫に。

 

今は私が冷静にならなければ。

私が我慢しなければ。

 

夫にとって

今が一番大変な時なのだから。

 

夫が元の夫に戻るまで

私が夫を支えなければ。

 

 

 

 

私は壁の穴を見つめながら

自分の心に何度もそう言い聞かせた。

 

 

 

 

 

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香水⑤

日に日に変わっていく夫。

 

夫は深夜に帰宅することが多くなり

私とは必要最低限のことしか

話をしなくなった。

 

どう見ても

明らかに夫は私を避けている。

 

もう気のせいでは済まない。

 

そんな初めて見る

変わりゆく夫の姿に

私は酷く戸惑った。

 

知り合って24年

結婚して20年。

 

私たち夫婦に

これといって大きなもめ事はなく

大きなケンカもない。

 

私にはいくら考えても

こうなる原因に思い当たることが

無いのだ。

 

 

 

なにかがおかしい……。

 

 

 

ある日ふと気が付いた

夫の小さな変化は

日に日に大きくなり

今では私の心を

不安で埋め尽くしていた。